2019年12月11日

感動しました 小2国語「かさこじぞう」の授業 第111回「川崎学びの会」報告

感動しました。
小2国語「かさこじぞう」の授業に。
その感動を伝えたくて、今回はその後に私が学んだことも含めてまとめたパワーポイントを添付して勝手にみなさんに送りつけます。子どもたちの写真はボカシておきますが・・・。お手すきのときにでも目を通していただき、お考えを聞かせていただければ、私もまた学ことができます。ただ、サーバーの容量によっては、ボカシてあるとはいえ、15枚もの写真を含むパワポを添付したのでは拒否されるかもしれません。(たとえば、川崎市教育情報ネットワークの容量は2メガです。写真は数枚しか送れません)
 ※こちらのブログにはパワーポイントデータを掲載しておりません。ご了承ください。

 文学作品を読む授業では「たっぷり音読したい」とよく言われますが、ただ音読を増やすだけでは、いかに早く読むか、いかに流暢に読むかに関心が流れて、肝心の読みが雑になってしまうことも少なくありません。音読を増やすことが形式的になっているのです。立って音読し、読み終わった子から着席するという授業を見ることが少なくありませんが、それはまさに音読の形式化を誘う授業です。
 それに対して、この授業をみると、
なぜ音読が大切なのか
音読を重ねることでいかに読みが深まっていくのか
どのように音読をするのか
 ということが子どもたちの姿を通して具体的にわかります。
 この授業ではたっぷり、というか合計すると48分間の授業のうち、22〜23分間も音読しています。半分近い時間が音読に充てられているのです。
 音読のタイミングも内容も多彩です。重奏低音のように流れているのは、テキストの言葉に沿って読むという考えです。
 
 最初の音読の場面では「すごい声で読んでいるけど、お爺さんの気持ちになって読んでください」とたしなめました。すると音読の調子が一気に柔らかくなりました。
 「えー、かさはいらんかねェ」という場面では「そんなもん?」と問われ、子どもたちは声を張り上げます。勢いあまって「けれどもかさはうれません」と読んだとき、すかさず「『けれども』って書いてあるよ」とテキストの言葉に目を向けさせます。すると、音読の声が一変します。
 かさが売れないので帰ることにし「もちこももたんでかえれば、ばあさんはがっかりするじゃろうのう」とつぶやく場面で「おばあさんががっかりするだけじゃなくて、おばあさんががっかるするだろうと思って、おじいさんもがっかりしている」という意見が出ました。それを聞いた子どもたちの間から「アーッ」という声があがりました。「気がつかなかったけれど、いわれてみたらそうだ」と納得したのです。中には大きく手を打つ子もいます。

 圧巻なのは「おおとしのいち」の場面です。おおとしの市のにぎわいについて学んだあとに「どう?おおとしの市のにぎわいが聞こえてきた?」と問われると、子どもたちは目を閉じ、「聞こえてきた」とつぶやきます。その場面について、その日の学びの会の参加者から「素敵だなあ。こんな授業をしてみたい」というため息とも聞こえる声が出ました。

 最後に「ひもくれかけた」と「ひがくれかけて」とではどう違う?とたずねました。終了数分前の場面です。子どもたちはのりました。夢中で考えました。やがて「『も』だと日、太陽だけじゃない」という言葉が飛び出しました。それに対して「じゃ、太陽以外の何?」と問い返され、あれこれ考えているなかで「人!」とつぶやいた子がいました。すかさず「人って誰?」と問うと「おじいさん」「かさが売れなくでおじいさんの気持ちも暮れかけた」という意見が出て子どもたちは納得。子どもたちの満足げな表情が印象的です。

 この日は授業事例が素敵なだけでなく、月例会の参加者から飛び出す意見も素敵でした。

 「他の子の意見について考えるのは楽しい」という子どもたちがいい音読が読みの深まりにつながっている
 朗読劇ができそうな音読に仕上がっている
 テキストの内容や言葉にそって考え、音読している
 先生が「子どもたちの考えを聞きたい」と思っているのがよくわかる
 先生は(自分の)読みに導いていない。子どもの言葉に添うようにして読み進めている。
 先生が子どもたちをリスペクトしているのがよくわかる
 子どもたちは先生を頼りに学んでいる。(先生の読みに導くのではない。かといって、子ども任せでもない)そこが絶妙。
 「どう、大歳の市のにぎわい 聞こえてきた?」と問われて子どもたちが眼を閉じて「聞こえてきた」という場面に感動した。こんな授業を私もしてみたい(前掲)
 等々。

 でも、「この授業を一般的な研究会に出すと批判がいっぱい出てくる。『何も教えていない』というのです」と嘆く声もありました。どうしてなんでしょう。不思議です。「文学の授業はこうあるべき」という「理論ともいえない思い込み」が先に立ち、子どもたちの学ぶ姿をみて、その事実から語ることができていないのではないかと思います。理論がなくては「事実から考える」ことは十分にできません。かといって理論に現実を当てはめるのでは都合のよいことだけをみるということになりかねません。多くの研究会では後者が勝ち、そこに「理論」とはいえない「経験」が頑迷な「偏見」とさえいってよいような見方がはびこるのです。
 「理論」と「事実」の関係は難しいですねえ。

 この授業を川崎学びの会の月例会で取り上げたのは2回目です。1回目では見えなかったことが見えたのも私にとってはよい学びになりました。
 参加された先生方ほんとうにありがとうございました。

ついでに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いわゆる「説明文」「批評文」「評論文」を読む授業や「意見文」を書く授業にも最近はよく出会います。見るたびに、これでいいのかなあと思うことが少なくありません。形式化しているのです。その単元が来たから「説明文」を読む。その単元になったから「意見文」を書く。授業は単元ごとに細切れにされ、内容も貧弱で形式化しています。
 ではどうするか。
 一つの思いつきですが、「説明文」を読む単元と「意見文」を読む単元を合体してひとつのプロジェクト学習としてデザインしてみるというはどうでしょう。一つのテーマについて互いに異なる、中には対立する意見を含む複数の意見文を読んで、自分の意見を組み立てるという構想の学びです。批評文A、B、Cを読み、Aを批判し、Bに賛成する理由をまとめ、それらを踏まえた上で「自分の意見をまとめる」というのです。それは民主主義の基本につながる「作法」を学ぶ機会にもなります。
 ネットに蔓延する「意見」を見ればわかりますが、好みの意見、同調する意見だけ読み、異論にふれないという傾向はますます広がっています。ニッチに籠もり、匿名で他者を非難し、時に罵倒し、炎上する。ネット時代はデマも急速に広がります。そういうときに、自分が賛成できない意見にも目を通してきちんと批判し、賛成できる考えについても論拠を確かめ、それらを踏まえた上で自論を組み立てる。大事なことではないでしょうか?そうやって反対意見とも折り合いをつけていくことこそ重要なのではないでしょうか?
 それを、「説明文」を読む単元だから「説明文」を読み、「意見文」を書く単元だから「意見文」を書くというのでは、学びを貧弱にしてしまうのではないでしょうか?

  文責 SV 馬場英顕
posted by 川崎学びの会 at 06:34| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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