2020年03月11日

月は中2の理科の授業をとりあげます。学ぶことがてんこ盛りの授業です

 川崎学びの会の2月の月例会では中学2年の理科の授業をとりあげます。
 学ぶことがてんこ盛りの授業でっせ。

1. 日 時 2020年3月13日(金)18:30〜20:30

2. 会 場 川崎市高津市民館 第一会議室
      JR南武線「武蔵溝の口」駅
      東急田園都市線「溝の口」駅
      下車 徒歩数分。駅前にある丸井の入っているビルの11階

3. 内 容 中学校2年理科「分子はなぜそういう形をしているのだろう」

 「小中高校一斉休校要請」対応にさどかしご心労のこととお察し申し上げます。それ以上に保護者も苦労されていることと思います。
 でも、そんなときだからこそいっしょに考えてみませんか?
 4月からは「主体的・対話的で深い学び」を掲げる新指導要領が実施になります。その基本的な考えを知るほど、具体的にそうすればいいのかわからないで悩んでおられる先生がたくさんいらっしゃると思います。「おそる おそる」やってみて、その「おそる おそる感」に共感し、それぞれに「おそる おそる」やってみる。そういうことを積み重ねる中からしか展望は開けないと思います。
 川崎学びの会は、その「おそる おそる」やってみたことをいっぱい蓄積しています。素敵な学びであればそれだけ学ぶことがたくさんあります。
 「中学校の授業だから」「理科だから」などと世間を勝手に狭めずにいっしょに考えましょう。

なおこの先は
116回 4月18日(土)小学校2年算数「どっちが大きい」か
             中学校3年理科「スピーカーの原理」の
いずれかをとりあげます。どっちにするか「おそる おそる」「びくびく」しながら考えています

117回 5月26日(火)上記のいずれか。
118回 6月〇〇日(未定) 中1英語「canを使った表現」
119回 7月〇〇日(未定) 中1保健「ストレス」
120回兼第9会共催研修 8月8日(土)川崎市総合教育センターとの共催研修

 現在、授業事例を募っています(募集しています)
 なお、小学校の授業事例として新潟の先生をお招きしたいと「おそる おそる」考えているところです。しかし、新潟から授業者をお招きする件について、なかなかご意見がいただけず困惑しているところです。
 
 ついでながら、季節性インフルエンザによる死亡者数のグラフを添付しておきます。危機への対応に関する考え方についての記事も添付しました。世界中がパニックになっている事態にちょっと距離をおいて考えてみてはどうでしょう。
 また、私たちの社会が極めて脆弱なことを痛感させられています。

1. デマや噂が高速で広範囲に伝播する
2. 生活基盤にかかわるモノの自給率が極めて低い 
・マスク、消毒用アルコールの自給率の低さ
・食料自給率の極度の低さ
などはその好例です。

 文責 川崎学びの会 顧問 馬場英顕
posted by 川崎学びの会 at 17:43| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「川とノリオ」の授業を学びなおしました。第114回 川崎学びの会

 2月の川崎学びの会では「川とノリオ」の授業について学びなおしました。
 今年の1月に伊東で行われた学びの共同体研究会の全大会で取り上げられた授業です。
「川とノリオ」はとても素敵な作品です。教育出版の教科書に掲載されています。私は不勉強にも、1月の大会で初めて読みました。
 当時2歳だったノリオが小学校2年生になり、じいちゃんが勤める工場のやぎっ子の干し草刈りがノリオの仕事になっています。桜の木につないだやぎっ子が母ちゃんヤギを呼ぶようにノリオを呼ぶ。子どもの手を引いて女の人が葉桜の間を遠ざかっていく。それを見ながらノリオは鎌を使う。
「サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れ。
 サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れよう」
この2行は何度読んでも涙が滲んできてしまいます。この頃になると母ちゃんがもう帰ってこないことはわかっているのでしょう。でも、まだノリオの胸には収まっていません。「サクッ、サクッ、サクッ」と草を刈る音は、ノリオが母ちゃんへの思いを断ち切る音なのかもしれません。
 「川とノリオ」ではこの「サクッ、サクッ、サクッ」と8月6日の場面で、響いた「ドド・・・ン」という擬音が重い意味を担っているようにも思います。テキストには、母ちゃんの死をうかがわせる言葉はありますが、明示する言葉は見当たりません。ただ「ドド・・・ンという遠いひびきだけは、ノリオも聞いたあの日の朝、母ちゃんはヒロシマで焼け死んだという」とあるだけです。
 授業では延べ18回あまり、音読が多彩に重ねられています。全文音読(マル読み)、8月6日の場面の音読のほかに「どこからそう思ったの?」とたずね「そこ読んでみようか」と音読を促し、つねにテキストの言葉にもどって考えるように促しています。ここまで音読を重ねる授業は、残念ながら川崎市内でみることはなかなかありません。変な小細工をせず、ひたすら「どこからそう思ったのか」を問い、音読する。テキストの言葉にこまやかにふれ、作品を味わっていこうというところに「文学の学びはこうありたい」としみじみ思いました。

2月の月例会の参加者からは
 思ったことが自由に言えるクラスだ
 この授業では時間がゆったり流れている。子どもたちは「色」や「音」を感
 じながらゆっくり読んでいる。自分の教室の「速度」を見直したい
 2歳の子には、お母さんが死ぬ、死なないではなく、お母さんが帰ってこないということが気になるはず
 「ノリオは川の声を聞いていないという発言に続く音読が深い
 子どもたちの発言が並列的なように思える
という発言がありました。

 私自身は「比喩」の解釈に関する発言が子どもたちからたくさん出ていたのが気になりました。「比喩」について授業者は力を入れて指導されているのかもしれません。
 それに対して、テキストに登場するモノやコトはどこまでふれてきたのでしょうか。子どもたちにはなじみのないモノやコトが所々に登場します。そこが気になります。「やいと」「はんてん」「汽車」「米一升」などがその例ですが、そういうことが曖昧なままだと、読みも雑になってしまうかもしれません。
 添付のパワポのスライド(ブログには添付されておりません。ご了承ください。)でもふれましたが、32分過ぎにT養くんが次のような発言をしました。
 「ノリオはここから(8月6日)川の声を聞いていないのは、そのノリオは母ちゃんが帰ってこなかったり、朝になぜかドド・・・ンと音が響いたりして、ノリオは不思議で、頭がこんがらがったりして、ノリオは、この川の声を想像する気持ちに至らなかったと思いました」
 驚きました。「川の声を聞いていない」なんともすごい発言です。
 8月6日の場面は、いつもと様子が違うのにノリオは気づいて次第に不安になっていく場面だとは私も気づいていましたが、それを「この日、ノリオは川の声を聞いていない」と言ったのです。
 その子はグループでもそういう発言をしていました。授業者の近くのグループだったのでグループの会話もビデオに収まっていました(ビデオの音声が聞き取り難いので、手持ちのイコライザーを通して2〜3000ヘルツの音を強調し、それより低音域と高音域を下げてみると何とか聞き取れました)。改めて「川とノリオ」を読み返してみると、この子の言う通りです。
 この発言に先立ち、20分過ぎにK田さんが次のような発言をしています。
「母ちゃんがいつもは帰ってくるけど、今日は帰ってこないというので、不安とか違和感とか、そういう思いが全部この川に映し出されて、それが水面に映っているんだなと思いました」
 T養くんの発言はK田さんのこの発言とつながっているのかもしれません。
 T養の発言に続いて「そこを読んで」と授業者は音読を求めました。その音読には深いものがありました。その日の川崎学びの会の参加者のひとりのN先生からT養くんの音読がいいという指摘があったの道理です。
 T養の発言は、8月6日の場面の核心に迫る発言です。それは「川とノリオ」の本流につながってもいます。
 ところが授業者はそこを「上手に読めたね」と受け、他の発言を求めました。このときほど「他に」という言葉が恨めしく思ったことはありません。せっかくの発言が子どもたちの読みを深める機会を逃したのです。そして「比喩」と「ノリオは母ちゃんが死んだと思っているかどうか」という話題に戻ってしまいました。参加者のS先生の「発言が並列的」という指摘はそこにもつながっています。T養君の発言に注目し、他の子につなぐことで読みを深めることができた可能性があります。では、なぜそれができなかったのでしょう。その背景に次のようなことがあるのではないかと私は考えています。
 「ノリオは母ちゃんが死んだと思っているか。死んだとは思っていないか」という授業者が予め設定していた問いにこだわるあまり、T養くんの発言の意味を読み取り損ない、他の子の考えにつないだり、グループにもどすことができなかった。「想定」が子どもの発言を聴く耳を損なうことがあるのかもしれません。
 「母ちゃんが死んだとノリオが思っているかどうか」という問いは、少なくとも8月6日の場面では授業者のミスリードだというのは言い過ぎでしょうか?
 T養くんの発言が含む意味に気づかなかった。ひょっとしたら、授業者自身の作品の読み込みが足りなかった可能性があるというのは酷でしょうか?
 子どもの発言に対するリスペクトが足りなかったというのは推測が過ぎるでしょうか?
 ついでにいえば、確かにたっぷり音読しました。ところがどうも形式的になっていはいないかという疑念がわいてきます。
 T養くんの発言の後の音読はちょっとちがいますが・・・
 授業授業者は優れた実践を重ねてきたベテランだとうかがっています。手慣れてくるとこういうこともあるのだなあということも学んだことの一つです。

 文責  SV 馬場 英顕
posted by 川崎学びの会 at 17:31| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする