2018年12月22日

第8回学び合い共催研修決定です。

「第8回学び合い共催研修」が
来年、8月17日(土曜)9:00〜17:00
川崎市総合教育センターで開催することが決定しました。
今回も、佐藤学先生をお招きし、研修会を行います。また、今回は佐藤学先生が朝から研修に参加していただけるとのこと。一緒に学ばせていただく機会が増えたこと本当に嬉しいです。
 皆様お誘いあわせの上、学びの会へご参加お待ちしております。
posted by 川崎学びの会 at 13:27| Comment(0) | 研修会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

報告します。 第100回「川崎学びの会」『大造じいさんとガン』 SV馬場英顕

 川崎学びの会はついに100回を迎えることができました。応援してくださる方々に感謝申し上げます。なによりの応援は参加してくださること。そして授業事例を提供してくださることです。川崎市における授業の改革にささやかでも貢献できたのではないかと自負しおります。

 また近隣の地区、横浜市、横須賀市、藤沢市、東京都、埼玉県の学校の授業改革にかすかではあってもお手伝いできたのではないかとうぬぼれてもいます。

  今回は小学校5年国語「大造じいさんとガン」の授業を取り上げました。事前にご希望いただいている方とご指導いただきたいと思っている方にはその日に私が使用したパワーポイントの資料を添付してお送りしますので暇つぶしにご覧いただけると嬉しいです。ただ、子どもの顔がわかる写真はボカシてあります。事情をご賢察ください。

 おまけとして、東京新聞の「ミラー」欄に掲載された拙い文章を添付しました。世間に蔓延する「教師は世間知らず」と「教師の仕事はイージーワーク」という誤解にちょっぴり異論を唱えてみたくなったからです。660字という制約の中で意を尽くせたとはいえませんが、言いたいことを汲んでいただき、ご意見いただけると嬉しく思います。

 第100回とはいえ、この日も参加者は20人に届かずちょっぴり寂しい思いをしました。でもいつもにも増して中身は充実していました(少なくとも私はそう思っています。ノー天気でしょうか?)

 

1、「『おうい、ガンの英雄よ。お前みたいな、えらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかぁないぞ。なあ、おい、今年の冬も、間を連れてぬま地にやってこいよ。そうして、おれたちはまた堂々と戦おうじゃないか』という5行の台詞はいらないのではないか。説明が過剰になっているように思う」というテキスト批判が参加者から出ました。

 この5行の台詞を抜き、「大造じいさんは、花の下に立って、残雪が北へ北へと飛び去って行くのを、晴れ晴れとした顔つきで見守っていました」としたほうが「余韻がある」というのです。他の参加者からは「なるほど」という声が漏れました。

 そういえば「ごんぎつね」について似た話があるのを思い出しました。教科書には「『ごんおまいだったのかいつもくりをくれたのはごんぐったりと目をつぶったままうなずきました」とあるが18歳の新見南吉の草稿にはお前だったのか・・・いつも栗をくれたのはーー」権狐はぐったりなったままうれしくなりましたと書かれていたといいます。「赤い鳥」を主宰していた鈴木三重吉が掲載に際して「うれしくなりましたを削除したらしいのです。そして「ゴンぎつね」はつぐないと自己犠牲の物語になったというのです。

 「お母さん不道徳講座(堀越英美 河出書房新社)に紹介されていました。

別の参加者からは「今年の冬も」の「も」はどこまでつながっているのだろう」という発言がありました。

大造じいさんはどこまでのことを「ひきょう」と考えていたのだろうという疑問です。

そういえば、マリ(仮名)は「(大造じいいさんは)ひきょうでない。それは『作戦』だという発言をしました。授業からそれがちな高田が、それに触発されるように「サッカーで言えば、それは『作戦』だ。ひきょうではない」と発言しました。そのとき子どもたちの間からつぶやきがたくさん生まれ、ざわめきました。

ここに先の「5行」につながり、「『も』はどこまでつながっているのだろう」ということにもつながる「芽」があるように思います。

その「芽」と「ざわめき」「つぶやき」に気づいたら「グループで相談してみて」とグループにもどし、テキストの言葉につなぐと読みが深まった可能性がありそうです。

2、授業は全文の音読から始まりました。子どもたちの10分近い音読を聞いていると、速く読むことに流れて、読みが雑になっているのではないかということが気になりました。最終場面を取り上げているのですからそれまでの流れは大筋でつかめているのではないかと思われるので、部分読みを中心に据えて、ていねいに音読するようにしたいなあと思いました。

また授業者も一緒に音読しています。その姿は誠実にみえるのですが、子どもたちがどのように音読しているのかということを感じ取るのが疎かになっていくのは避けられません。また学びから逸れがちな高田君を支えることも必要だったのではないでしょうか。

3、この教室にはおだやかな空気があり、子どもたちは発言者のほうに自然に顔を向けて聴くことが身についているようです。だから子どもの発言が自然につながっていきます。授業者も子どもの発言を「そうだね」と 教師が受けるのではなく、「〇〇さんはそれについてどう思う?聞かせて」と子どもたちの考えをつなごうとしています。

4、文章にあるモノ、コトにふれ、一つひとつの言葉を大切にしたいなあと改めて思いました。それは文章の中の「言葉」にていねいにふれることでもあります。「ひきょう」「堂々」「一俵」「タニシ」「うなぎ針」「ガン」「かりうど」等々。

 よく指摘されるように、ガンは肉食動物ではないようです。もしそうならこのお話しは破綻しています。タニシを使った仕掛け自体が成立しないのですから。テキストを絶対視することにも慎重でありたいものです。

5、授業の冒頭で板書された次は堂々と戦おうじゃないかと伝えた思いとはにか」という問いが、子どもたちが何となく感じたことを交流して読み深めていくことよりも、この問いの答えを探すためにテキストを読むことになった。それは、ひいては、先生の求めている答えをテキストから探そうとする読みに導くことになったのではないか。


6、まず「初読の感想」を書き、それを交流しながら読み進めていくという授業が一つの型になっているのでしょうか?本時でもその影響がみられました。まず自力で考え、それを交流しながら練り上げるという授業が一つの常識的な形になっているようです。残念ながら本時にもその影響が感じられました。

 しかし「自力思考」している場面における子どもたちの姿をみるとどうでしょう。ひとりで考えている子がいる傍ら、じっと考えているふりをしている子が少なからずいるのに気がつくはずです。つまり「まずひとりで考える」のは学力格差を拡大しているのです。

 テキストを読めば「なんとなく感じること」があります。でもそれはまだ言葉になりません。そこをグループや皆で交流し、霧が晴れていくように次第に自分が感じていたことが言葉になり、くっきりとしていきます。「初読の感想」はその機会を損いかねません。そこが問題なのです。 


7、この教室の形から見て座席配置に無理がありました。多くの教室は前後の方向に長い長方形をしています。そこに「コ」の字形で8列に座席を配置すると、長辺方向には余裕が生まれますが、短辺方向が窮屈になり、グループ席にするのが難しくなります。そのために本時のグループ活動は半端になってしまったのでしょう。身体だけを向けるのでは十分に対話することはできません。また教師の支援を必要としている子がいても、そばに行くのが困難です。新しく建設されている校舎のなかには正方形に近い教室があります。それは黒板に向って整列する、いわゆる「スクール席」ではなく、グループ活動や「コ」の字の形の座席で、対話と探究を中心にした学びを想定しているのかもしれません。前後の方向を長辺とする教室は、どちらかというと、講義型の、いわゆる「トークとチョーク、時々のジョーク」の授業を想定しているといえるようにも思います。そういう教室で、子どもを中心に据えた、探究と対話の学びを組織するには、教師にも子どにとっても緩やかな印象が持てる座席配置を工夫したいものです。


8、授業とは直接関係はありませんが、気になることを・・・

  最近参加者が固定化し、人数も少なくなっています。

「主体的・対話的で深い学び」が唱和されているなかで、なぜこのような状況になるのでしょう?市内の中学校の校長をしている教え子の一人に「一度来ないかい?」と声をかけたことがあります。「あぁ、あれですね」の一言で片づけられてしまいました。

 情報化時代にはあらゆることが「情報」として消費されてしまう。などと分かったふうなことを言って片づけられない問題がそこにはあります。メールで案内を出しても、学びの会の報告を送っても、ワンクリックで消すことができるのが「情報」です。

 それに対して強いのが「口コミ」です最も野暮で、アナログ的な方法ですが、そこにはメッセージを単なる「情報」にしないものがくっついています。

 改めて「口コミ」「肩たたき」「Face to face」を活用したいなあと痛感しています。

  文責 SV馬場英顕

posted by 川崎学びの会 at 13:18| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする