2020年05月02日

新型コロナウィルス禍のもとでグループ活動が困難になっている。そのなかで「協同して探求する学び」を追求し、終息後のいそおう充実した学びを準備する  川崎学びの会 顧問 馬場 英顕 

新型コロナウィルス禍のもとでグループ活動が困難になっている。そのなかで
「協同して探究する学び」を追究し、
終息後のいっそう充実した学びを準備する


1.新型コロナウィルス禍が学びにもたらした危機
◆新型コロナウィルスの急速な感染拡大が続いています。そんななかで「協同して探究する学び」をどのように進めていくか。「学びの共同体」の実践に挑んできた学校は現在大変難しい問題に直面しています。
 子どもたちも厳しい状況に置かれています。年度末には急に休校になり、新年度になっても休校が続き、新しい先生方のこともわかりません。友達とも顔を合わせていません。教科書は手にしていても、学ぶことができないでいます。なかでも新入生は不安で落ち着けないことでしょう。そこに日本の学校のICT化の遅れが影を落としています。選択できる手立てが限られるために、事態はさらに難しくなっています。ふだんの備えの不足が危機の時に対応できる選択肢を狭くしているのです。しかも、新型コロナウィルスの終息までには1〜2年間という長期間にわたる可能性がありそうです。
 子どもたちと学校が直面している問題は深刻です。とりわけ、授業改革に取り組んできた学校と先生たちの悩みは深刻です。「学び合う学び」のなかで力を合わせて探究する楽しさを知り始めていた子どもたちも戸惑っています。

◆では、この状況が大きく変わらないなかで子どもたちが登校し始めたときどう対処すべきなのでしょうか?ここでは、次のような問題に絞って考えてみましょう。
(1)「三密」を避けることが要請されているなかで、日常的に「協同して探究する学び」をどうつくっていくか?
(2)実施計画が立てにくくなっている校内研修会をいかに充実し、新型コロナウィルス禍が終息した後の学びをいっそう充実するにはどのような校内研修会が可能か


具体的には
@「密閉空間で換気が悪く」なるのを防ぐ
 季節は春、初夏です。窓を開け放すことができますからなんとか対処できます。この先は、夏季休業の削減も考えられます。都市部では冷房も必要になりますが、冷房は教室の密閉化に繋がってしまいます。

A「多くの人が密集」するのをどう防ぐか
 登校が始まると40人近い子どもが教室に入ることになりますから密集は避けられません。休み時間も気になります。マスクをとる昼食時はさらに問題です。オンライン授業と対面授業との併用も考えられますが、日本の学校のICT化が遅れているためにそれができません。

B「近距離での会話」を避けることが求められているなかで、学び合いをどう進めるか。
 学びの共同体を推進してきた学校ではその中心的な場であるグループ活動ができないというのは頭の痛い事態です。4人グループの活動は「協同して探究する学び」を実現するための最適の環境です。ところがそれはまた「近距離での会話」が避けられないという場面でもあります。先生方が心配されるのも当然のことです。

2.一斉授業にもどさないために

◆一斉授業に戻ることは、これまで蓄積してきたことを無駄にしてしまいます。何とか「協同して探究する学び」を継続したいものです。ではどうすればいいのでしょうか?
 机をピッタリつけた4人グループの座席で、必要に応じて相談できるからこそ「協同して探究する学び」が実現できるのです。どの子もわからないままひとりぼっちにしないためにも重要な環境です。男女混合の4人グループによる学び合いは「協同して探究する学び」の最適な環境なのです。
 新型コロナウィルスはそこを困難にしています。感染拡大の速度を落とし、抑止につないでいくという喫緊の対策をとろうとするとグループ活動は難しくなります。
 多くの地域で、スクール席に戻して、グループ活動をやめることが求められています。どさくさまぎれに「チョークとトークの授業」に戻そうとする動きが出てくるかもしれません。教科書にあること、教師が知っていることをわかりやすく、できれば面白く説明する、昔ながらの「伝達する授業」が復活しかねません。それは教師には手慣れた、そして子どもたちにとっては最も退屈な授業への回帰です。
 それでは「協同して探究する学び」に向って改革を進めてきたことが台無しになってしまいます。新たに挑戦しようとしている学校では二の足を踏みたくなるかもしれません。

◆新型コロナはやがて終息し、季節性インフルエンザと同じように我々と共存するようになるでしょう。そのために多くの医療関係者が文字通り命がけで努力し、社会のインフラを支えている人々も感染の不安がある中で懸命に働き、みんなが「巣ごもり」に努めているのです。
 新型コロナ禍が終息したあとにどんな世界が拡がっているのでしょうか。そう考えると今考えるべき二つの問題がはっきりしてきます。
(1) 新型コロナウィルス禍のさなかで「協同して探究する学び」をいかに実現するか?
(2) 新型コロナウィルスが終息した後の学び合いをさらに充実するためには、いま何をしておくべきか?


3.新型コロナウィルス禍という制約のもとで「学びの共同体」を推進する

◆グループ活動を避けながら「協同して探究する学び」を何とか実現できないかと考えてみました。グループ活動、協同して探究する学びの関係は次の図のように表すことができます。
 学びの共同体の実践に取り組み始めたばかりの学校のなかには、図の左の部分に当てはまるような授業をしているところもあります。4人グループや「凹型」の座席で一斉指導している授業がそれです。そういう学校では「首が痛い」「おしゃべりが増えてしまう」という声が上がります。その背景には「学び合い」が単なる形式として受け止められていることがあります。
 図(添付資料)の右の部分はグループ活動ができないという制約下での「協同して探究する学び」を表しています。

◆中央の重なった部分が男女混合の4人グループと凹型の座席をフルに活用した「協同して探究する学び」に相当します。ここに「学びの共同体」の理念にもとづく最適な学びの環境があります。今回の「新型コロナウィルス」禍で困難になっているのはここです。とはいえ、その制約はやむをえないことでもあります。
 グループ活動ができないという制約下で、どうすればスクール席(できれば凹型の座席)で「協同して探究する学び」ができるのだろうかという疑問がここに生まれてきます。図の右側の部分はそこを表しています。この問題について考えることは、子どもたちが学校に戻ってきたときに、グループ活動ができないという制約下での「協同して探究する学び」の可能性について考えることにもなります。
 それはまた、新型コロナウィルス禍が終息した後に、いっそう充実した「学び合う学び」を展開していく準備をすることにもつながります。

4.グループ活動ができないという制約下で「協同して探究する学び」を追究し、新型コロナウィルス禍終息後のより充実した学びを準備する

◆グループ活動ができないという状況のもとで「協同して探究する学び」を展開していくには、教師にはいっそう高い能力と見識、より本質的なビジョンが求められます。困難なときこそ「どの子もわからないまま独りぼっちにしない」「協同して探究するなかで学びの質と平等を同時に追究する」という方針を掲げ続ける必要があります。

(1) 教師は、教室に用意された学びの最大の環境であることをまず確認しておく
 そのとき、改めて「教師は教室に用意された学びの最大の環境である」ということの重要さが浮かんできます。教師は聴くことのモデルであり、探究するモデルであり、独りぼっちになりがちな子にどう接するかというモデルであります。では、具体的に教師はどんなことをしておくとよいのでしょう。

(2) 注目した発言(「つぶやき」や「ささやき」も含めて)を教師がリボイスして他の子に「つなぐ」
 かといって「つぶやき」を聴き取ろうとして子どもたちの間を歩きまわり、腰をかがめて聴く必要はありません。教室の前方にいて子どもたちの学びの姿を注意深くみていれば、内容は聴き取れなくても「つぶやいた」「ささやいた」ということは見えてくるはずです。「つぶやいた」「ささやいた」ということに気がつきさえすれば、その子に「〇〇さん、あなたの考えを聴かせて」と言えばよいのです。しかし「三密を避ける」ことが求められている現在、「ささやき」を期待するのは無理です。

(3)「話す」ことよりも「聴く」ことを大事にし、気軽につぶやくことができる関係をつくる
 教師は教室における学びのモデルでもあります。どうしても「わかりやすく、できれば面白く説明する」いわゆる「伝達する授業」に流れがちですが、それでは何も変わりません。大切なのは、まず教師が「耳を傾けて聴く」ことです。大声で長々と説明することはこの機会にぜひやめたいものです。 
 子どもたちのテンションを下げ、穏やかに話し、互いに耳を傾けて聴き合う関係をつくるには、まず教師が話す言葉を厳選し、子どもたちの考えを聴くように努めることが大切です。
 
(4)子どもの発言(「つぶやき」も含めて)に隠れた意味を読み取る
 子どもの発言は必ずしも論理的ではありません。むしろ創造的な着想ほど非論理的で、たどたどしく、ためらいながら説明されることが多いのではないでしょうか。その不十分な説明のなかに隠れている、本人も気づいていない意味を読み取り・・・

@ 「違う考え」に注目する
 つい「似た考え」に注目しがちですが、異なる考えや意見に出会うことは深く考えることにつながります。違う考え、異なる意見が出たときこそ、他の子につないでそれに対する考えを求めたいものです。
A 問題を焦点化する
 課題が「大きい」場合、どこから手をつけていいのか考えあぐねます。そういう時、違う考えに注目することで、手掛かりが浮かんできて問題のポイントが見えてくることがあります。
 すかさずそこに注目すれば問題の核心に焦点を当て、探究を促すことができます。
B 視点を転換する
 異論、違う考えは視点を切り替える好機でもあります。似た意見ばかりに注目していると、ついひとつの視点に固着し、打開策が見えなくなることがあります。異なる考えはそこをこえていく大切なはたらきをします。
C 機をとらえてジャンプの課題を修正する
 子どもの発言や着想から新たにジャンプの課題が生まれてくることがあります。最初から用意された課題を「仕掛けるジャンプ」とするなら、こちらは「生まれてくるジャンプ」とでもいえましょうか。

(5) 課題を解決する過程で必要な「小問」を設定する
 試験問題や練習問題では、たいていいちばん考えさせたい問題の前に、そのステップにあたる小問題が設定されています。しかしそういう小問自体を子どもたち自身が設定できることはもっと大切にされるべきです。それは大きな問題を解決するために必要な小問題にブレイクダウンするといわれることでもあります。

(6) 資料を加工する
 問題の条件を限定して特別な場合について検討したり、具体例に置き換えて操作しながら考えてみることは「大きな問題」を解決するための大切なステップです。要約したり、キーワードを見つけたり、言い換えてみるのも対象に迫る手立てになります。データをグラフ化する、二つの資料を比較するというのもとても有効です。
 そういうとき、つい「発問」という形態で教師が代行しがちですが、子どもたち自身が試みることが大切なのです。そのとき多彩な着想が生まれ、そこから解決の糸口が見えてくることも少なくありません。

(7) ていねいに「つなぐ」「もどす」
 子どもの着想、意見に隠れている意味に気づいたら、それを他の子につないだり、先の考えにもどす。「〇〇さんが言ったことについてグループで相談してみて」とグループにもどしたり「〇〇さんの言ったことについてあなたはどう思う?聴かせて」と応じるのです。グループ活動ができないという状況のもとでは「グループにもどす」かわりに、他の子に「つなぐ」ことが中心になるでしょう。
 また「どこからそう考えたの?」と問い、テキストや図、式、グラフ、資料にもどして根拠をもって考えるようにしたいものです。
グループ活動ができないという制約下では教師の役割はいっそう重要です。

(8) 子どもをリスペクトし、子どもに対する感受性 を磨き、教師の居方を洗練する。
 グループ活動を配置した理想的な学びにおいても「子どもの学びの姿」を感じることが欠かせません。ましてグループ活動ができないのですから「協同して探究する学び」をするには、「子どもたちの学びの姿」を感じることがいっそう大切になります。「すぐれた教師は眼と耳で仕事する」ことが大事だと学先生がおっしゃるのはそのことだと思います。
 そのためには、まず「子どもをリスペトする」ことです。「子どもは白紙、教えなければ何もできない」という子ども観、学習観ではなく、子どもたちは「意味ある経験」と「既習」をもとに「自分なりの概念」で世界を認識していると考えることができれば、学びは根本的に違ってきます。「協同して探究する」なかで「自分なりの概念」が洗練され、組み直されていくようになります。それが学ぶということなのではないでしょうか?
 子どもをリスペクトして、その着想に耳を傾け、その意味を考えていると教師も多くの発見をすることができます。

(9) 教科内容についての教養を磨く
 「学ばせたいことを課題として表現する」(仕掛けるジャンプ)には教科内容についての教養が求められます。子どもの発言の意味をとっさに判断して他の子につなぎ、異なる考えの意義を認めて深く考えることを促し、子どもの着想をもとに学びを修正して新たな課題(生まれてくるジャンプの課題)として子どもたちに提起していくには、これまでよりも深い教養が求められます。
 教室にいる教師は一人だけなのですから、子どもの発言や着想に含まれる意味を即座に判断し、まったなしに次の一手を決定するためには、教科の内容についてのいっそう深い教養が求められます。
 ところが小学校では全教科を担当していますから教科の教養を深めようとしてもなかなか追いつけないのが苦しいところです。
 中学校や高校では教科専任制ですから、教科内容について深い教養を身につけるのはさほど困難ではありません。ところが、そこに「惰性」が入り込む余地があります。教科書にあることをわかりやすく、できれば面白く説明する、いわゆる「伝達」する授業をするのなら、10年もたたないうちにとくだんの準備もいらなくなります。それに対して子どもたちの発言や着想に応じて臨機応変に学びを調整していこうとするとそうはいきません。

5.「三密」を避けるという状況下でいかに公開授業後のカンファレンスを充実するか

(1) 互いに授業を公開して子どもの事実から学び合う。
 学びの共同体の実践に取り組んでいる学校なら、当然やっていることですが、それぞれに気づいた学びのエピソードと、その意味解釈を交流して学び合うことが欠かせません。
 またその授業で生れていた「芽」を発見しもし芽吹かなかったときは、その原因や手立てをいっしょに考え、ともに学ぶ機会としてカンファレンスが行われるなら、授業者自身も安心して学ぶ機会になるはずです。
 ところが、新型コロナウィルスの感染の拡大を何とか遅らせたいとしている現在、外部の人を学校に迎え入れるのが難しくなっています。同僚が集まってライブで見た授業についてふり返り、子どもの学びの事実をもとに学び合うということさえ困難になっています。
「学校は内側からしか変われないし、外からの支援なしには変わることはできない」といわれます。校内研修をお手伝いしてきてしみじみと感じていることでもあります。
 ところが、今はそれが困難になっています。公開授業自体も新型コロナウィルス禍のなかではこれまでのようにはできません。では具体的には何ができるのでしょうか。

(2) 同僚がこぞって一つの授業を見ることが難しくなっている問題にどう対処するか
 40人近くの子どもが一つの教室に入ること自体が危惧されているなかで、さらにそこに校内の教師が加わることはもっと難しいことです。誰か一人が「公開授業」をビデオに収録し、そのビデオを見ながら振り返るという方法をとるしかないでしょう。

(3) 同僚が一つの部屋に集まって公開授業をもとに学び合うことが難しくなっている問題にどう対処するか
 同僚が一つの部屋に集まってビデオ記録をもとに学び合う。重要なことですが、今はそれも難しくなっています。もちろんこれまでのようにその途中でグループ協議することはさらに難しいでしょう。

(4) 外から研修のお手伝いをすることが難しくなっていることにどう対処するか
 先に述べたように、外部からの支援なしに学校を変えていくことはできません。学びの共同体のビジョンによる授業は、これまでになじんできた「伝達」中心の一斉指導とは原理的に異なっているからです。授業改革の担い手である教師自身が一斉指導の中で育ち、教師になってからは自分が受けた授業をモデルにして授業してきた教師も少なくないでしょう。そのため自身も「協同して探究する」という学びの経験がありません。
 そんななかで授業を根本的に変えようとするのですから、授業を変えたいという明確で強い意志がまず必要です。でもそれだけでは具体的にどうすればよいのかわかりません。「協同して探究する学び」を実践してきた経験とビジョンを持つ人による支援がないと改革は難しいのです。ところが新型コロナウィルス禍はそれを困難にしています。

6.新型コロナウィルス禍のただ中で「協同して探究する学び」を可能なかぎり維持しつつ、終息後のより充実した学びを準備する

◆このような事態だからこそ互いに授業を見せ合い、子どもの学びの事実から学び合う研修が重要になっています。校内研修がやがて訪れる新型コロナウィルス禍が終息した時の「協同して探究する学び」を準備することにつながっているからです。
 では具体的にどうすればいいのでしょう?
 今のところ次のような方法が考えられます。

(1) 互いにインターネットでつないだ複数の部屋にわかれてビデオカンファレンスをする
 同僚が一つの部屋で授業カンファレンスをするのが無理な場合は、相互にインターネットでつながれたいくつかの部屋に分かれて、テレビ会議のような形態でカンファレンスすることが考えられます。もちろん互いの顔を見ながら一つの部屋でビデオ記録を見て学び合うのが一番です。
 そこに外部からスーパーバイザーにあたる人が参加するには次のような方法が考えられます。

(2) 校内研修会にスーパーバイザーがネットで参加する。 
 最近テレビでよく見かけるやり方です。ただこの方法では、その日の公開授業を見ることができません。そのために授業の事実をもとに、一緒に考えるということができないという問題があります。
 動画を配信する方法もないわけではないのですが、個人情報の缶詰ともいえる授業記録のビデオを動画配信するのはセキュリティー上で大きな不安があります。

(3) 校内の先生が収録したビデオ記録を郵送し、スーパーバイザーが自宅でそれを見て、その後授業公開日とは別の日に開催される校内研修会にネットで参加する。
 この方法には授業日とカンファレンスの日がずれるという問題があります。しかし、ビデオ記録のセキュリティーを守りながら子どもの学びの事実をもとに、一緒に考えることができます。この場合も、校内で同僚が互いの顔を見ながら学び合うのが難しいときは、テレビ会議システムで互いにつながれたいくつかの部屋に分かれてカンファレンスすることもできます。

(4) 校内で集録されたビデオ記録を郵送し、スーパーバイザーがそのビデオを視聴して後日コメントを学校に郵送する。
 校内では授業公開日にカンファレンスを開催し、SVがその授業から何を学んだかは後日見ることになります。そのコメントが文章の場合は印刷して配布します。注目したい場面の動画や写真を交えてパワーポイントでコメントする場合は、DVDに焼いて郵送するという方法も考えられます。
 ただ、当該校の先生方とのの対話がないので、外部からの参与という点では(3)の方法より弱くなります。

7. ビデオ記録が重要 

◆校内の先生方が授業を直接みることができない場合はビデオ記録にたよるしかありません。そうなるとビデオ記録の質がカンファレンスの質を左右します。ビデオに記録されていないことは存在しないことになるからです。会話の音声記録も大切です。
 だからビデオ記録を撮る人には授業をみる力が求められます。カメラは教室の前方、黒板の脇に据えて、子どもの活動を中心に撮る必要があります。そのとき次のことに気をつけるとわかりやすいビデオ記録が撮れます。

(1) 指示代名詞が指していることを撮る
 子どもや授業者が「これ」「それ」と指示代名詞を使ったときはそれが指している「こと」や「もの」を撮っておくべきです。そうでないとそこにいない人にはよくわからないビデオ記録になります。

(2) 発言のつながりを撮る
 子どもが発言している時、最初はその子にカメラを向けるにしても、いつまでもその状態にせず、他の子がその発言をどのように聴いているかを撮っておくと、思考のつながりがわかるような記録になります。

(3) ノートやメモ、資料も撮る
 メモやその子のノート、時には資料も撮っておくと、ビデオ記録からその学びが具体的に見えてきます。
 これ以上ビデオの撮り方にはふれませんが、くれぐれも教室の後部にカメラを据えて授業者の姿ばかりを記録するというようなことにならないようにしましょう。
 よく記録されたビデオは、収録した人の関心や授業観もあらわしているものです。

7.川崎学びの会では月例会をオンラインで開催する準備をしています

◆川崎学びの会ではこれまで月例会を115回開催しました。また、その途中からは年に1回、川崎市総合教育センターと「共催研修」を開催してきました。ところがこの新型コロナウィルス禍です。1年間は月例会を開催するのは難しいだろうと判断し、ネット上で開催する準備をしています。
 これまでに2回小規模でテストし、間もなく少し規模を拡大して3回目のテストをします。テストしたのは、HangoutとWebexです。現在課題になっているのは、個人情報の缶詰でもある授業記録のビデオのセキュリティーをいかに確保するかという難問です。同じことを試みておられるところがあれば、セキュリティーを確保しながらどうやってビデオ記録を配信するかという難問について知恵を拝借できればありがたく思います。
 2回のテストではかなり可能性があることがわかりました。他の学びの会でもぜひ挑戦してみてください。本格的に運営できるようになれば、川崎や神奈川県内に限らず、遠くからでも、海外からでも参加できます。

◆オンライン授業も試してみました
 個人的なことですが、遠くに住む小学校6年と徒歩30分ぐらいのところに住む中学校1年の孫を相手にオンライン授業を週に1回試みています。算数・数学と国語、時々英語(スイミーをテキストに)をやっています。
たった2人が相手ですから、子ども相互の対話も含めて「対話」もかなりできます。
 やっているうちに「学校でしかできない学びとはどんな学びなんだろう」とか「学校だからできる学びって何だろう」というかなり根本的なことが気になってきました。
 いわゆる「伝達」の授業なら、すぐにでもオンライン化できそうです。ラジオ講座やテレビ講座では以前から行われてきたことでもあります。「友だちに会えなくてさみしい」という声をきくと「学校は友だちと出会うだけの場所なのか」とぼやき「学校の存在理由はどこにあるのか」「教師の仕事の核心は何か」ということも考えさせられます。

8.最後にもう一度

◆教師は教室に用意された学びの最大の環境です。グループ活動ができないという状況下で「協同して探究する学び」を実現するにはグループ活動を配置する場合よりも教師の役割は大きくなります。
 その経験が、やがておとずれる「新型コロナウィルスの終息」(それは季節性インフルエンザのような位置に収まり、人間と共存している常態だろうと思います)後に、より充実した「協同して探究する学び」を準備することにもつながります。
 くどいようですが「教師は教室に用意された学びの最大の環境」であることをしっかり心に刻みましょう。また、困難な状況のもとでも、決して一斉指導にもどしてはならないということも再度確認しておきましょう。
Book1.xlsx
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2020年03月11日

月は中2の理科の授業をとりあげます。学ぶことがてんこ盛りの授業です

 川崎学びの会の2月の月例会では中学2年の理科の授業をとりあげます。
 学ぶことがてんこ盛りの授業でっせ。

1. 日 時 2020年3月13日(金)18:30〜20:30

2. 会 場 川崎市高津市民館 第一会議室
      JR南武線「武蔵溝の口」駅
      東急田園都市線「溝の口」駅
      下車 徒歩数分。駅前にある丸井の入っているビルの11階

3. 内 容 中学校2年理科「分子はなぜそういう形をしているのだろう」

 「小中高校一斉休校要請」対応にさどかしご心労のこととお察し申し上げます。それ以上に保護者も苦労されていることと思います。
 でも、そんなときだからこそいっしょに考えてみませんか?
 4月からは「主体的・対話的で深い学び」を掲げる新指導要領が実施になります。その基本的な考えを知るほど、具体的にそうすればいいのかわからないで悩んでおられる先生がたくさんいらっしゃると思います。「おそる おそる」やってみて、その「おそる おそる感」に共感し、それぞれに「おそる おそる」やってみる。そういうことを積み重ねる中からしか展望は開けないと思います。
 川崎学びの会は、その「おそる おそる」やってみたことをいっぱい蓄積しています。素敵な学びであればそれだけ学ぶことがたくさんあります。
 「中学校の授業だから」「理科だから」などと世間を勝手に狭めずにいっしょに考えましょう。

なおこの先は
116回 4月18日(土)小学校2年算数「どっちが大きい」か
             中学校3年理科「スピーカーの原理」の
いずれかをとりあげます。どっちにするか「おそる おそる」「びくびく」しながら考えています

117回 5月26日(火)上記のいずれか。
118回 6月〇〇日(未定) 中1英語「canを使った表現」
119回 7月〇〇日(未定) 中1保健「ストレス」
120回兼第9会共催研修 8月8日(土)川崎市総合教育センターとの共催研修

 現在、授業事例を募っています(募集しています)
 なお、小学校の授業事例として新潟の先生をお招きしたいと「おそる おそる」考えているところです。しかし、新潟から授業者をお招きする件について、なかなかご意見がいただけず困惑しているところです。
 
 ついでながら、季節性インフルエンザによる死亡者数のグラフを添付しておきます。危機への対応に関する考え方についての記事も添付しました。世界中がパニックになっている事態にちょっと距離をおいて考えてみてはどうでしょう。
 また、私たちの社会が極めて脆弱なことを痛感させられています。

1. デマや噂が高速で広範囲に伝播する
2. 生活基盤にかかわるモノの自給率が極めて低い 
・マスク、消毒用アルコールの自給率の低さ
・食料自給率の極度の低さ
などはその好例です。

 文責 川崎学びの会 顧問 馬場英顕
posted by 川崎学びの会 at 17:43| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「川とノリオ」の授業を学びなおしました。第114回 川崎学びの会

 2月の川崎学びの会では「川とノリオ」の授業について学びなおしました。
 今年の1月に伊東で行われた学びの共同体研究会の全大会で取り上げられた授業です。
「川とノリオ」はとても素敵な作品です。教育出版の教科書に掲載されています。私は不勉強にも、1月の大会で初めて読みました。
 当時2歳だったノリオが小学校2年生になり、じいちゃんが勤める工場のやぎっ子の干し草刈りがノリオの仕事になっています。桜の木につないだやぎっ子が母ちゃんヤギを呼ぶようにノリオを呼ぶ。子どもの手を引いて女の人が葉桜の間を遠ざかっていく。それを見ながらノリオは鎌を使う。
「サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れ。
 サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れよう」
この2行は何度読んでも涙が滲んできてしまいます。この頃になると母ちゃんがもう帰ってこないことはわかっているのでしょう。でも、まだノリオの胸には収まっていません。「サクッ、サクッ、サクッ」と草を刈る音は、ノリオが母ちゃんへの思いを断ち切る音なのかもしれません。
 「川とノリオ」ではこの「サクッ、サクッ、サクッ」と8月6日の場面で、響いた「ドド・・・ン」という擬音が重い意味を担っているようにも思います。テキストには、母ちゃんの死をうかがわせる言葉はありますが、明示する言葉は見当たりません。ただ「ドド・・・ンという遠いひびきだけは、ノリオも聞いたあの日の朝、母ちゃんはヒロシマで焼け死んだという」とあるだけです。
 授業では延べ18回あまり、音読が多彩に重ねられています。全文音読(マル読み)、8月6日の場面の音読のほかに「どこからそう思ったの?」とたずね「そこ読んでみようか」と音読を促し、つねにテキストの言葉にもどって考えるように促しています。ここまで音読を重ねる授業は、残念ながら川崎市内でみることはなかなかありません。変な小細工をせず、ひたすら「どこからそう思ったのか」を問い、音読する。テキストの言葉にこまやかにふれ、作品を味わっていこうというところに「文学の学びはこうありたい」としみじみ思いました。

2月の月例会の参加者からは
 思ったことが自由に言えるクラスだ
 この授業では時間がゆったり流れている。子どもたちは「色」や「音」を感
 じながらゆっくり読んでいる。自分の教室の「速度」を見直したい
 2歳の子には、お母さんが死ぬ、死なないではなく、お母さんが帰ってこないということが気になるはず
 「ノリオは川の声を聞いていないという発言に続く音読が深い
 子どもたちの発言が並列的なように思える
という発言がありました。

 私自身は「比喩」の解釈に関する発言が子どもたちからたくさん出ていたのが気になりました。「比喩」について授業者は力を入れて指導されているのかもしれません。
 それに対して、テキストに登場するモノやコトはどこまでふれてきたのでしょうか。子どもたちにはなじみのないモノやコトが所々に登場します。そこが気になります。「やいと」「はんてん」「汽車」「米一升」などがその例ですが、そういうことが曖昧なままだと、読みも雑になってしまうかもしれません。
 添付のパワポのスライド(ブログには添付されておりません。ご了承ください。)でもふれましたが、32分過ぎにT養くんが次のような発言をしました。
 「ノリオはここから(8月6日)川の声を聞いていないのは、そのノリオは母ちゃんが帰ってこなかったり、朝になぜかドド・・・ンと音が響いたりして、ノリオは不思議で、頭がこんがらがったりして、ノリオは、この川の声を想像する気持ちに至らなかったと思いました」
 驚きました。「川の声を聞いていない」なんともすごい発言です。
 8月6日の場面は、いつもと様子が違うのにノリオは気づいて次第に不安になっていく場面だとは私も気づいていましたが、それを「この日、ノリオは川の声を聞いていない」と言ったのです。
 その子はグループでもそういう発言をしていました。授業者の近くのグループだったのでグループの会話もビデオに収まっていました(ビデオの音声が聞き取り難いので、手持ちのイコライザーを通して2〜3000ヘルツの音を強調し、それより低音域と高音域を下げてみると何とか聞き取れました)。改めて「川とノリオ」を読み返してみると、この子の言う通りです。
 この発言に先立ち、20分過ぎにK田さんが次のような発言をしています。
「母ちゃんがいつもは帰ってくるけど、今日は帰ってこないというので、不安とか違和感とか、そういう思いが全部この川に映し出されて、それが水面に映っているんだなと思いました」
 T養くんの発言はK田さんのこの発言とつながっているのかもしれません。
 T養の発言に続いて「そこを読んで」と授業者は音読を求めました。その音読には深いものがありました。その日の川崎学びの会の参加者のひとりのN先生からT養くんの音読がいいという指摘があったの道理です。
 T養の発言は、8月6日の場面の核心に迫る発言です。それは「川とノリオ」の本流につながってもいます。
 ところが授業者はそこを「上手に読めたね」と受け、他の発言を求めました。このときほど「他に」という言葉が恨めしく思ったことはありません。せっかくの発言が子どもたちの読みを深める機会を逃したのです。そして「比喩」と「ノリオは母ちゃんが死んだと思っているかどうか」という話題に戻ってしまいました。参加者のS先生の「発言が並列的」という指摘はそこにもつながっています。T養君の発言に注目し、他の子につなぐことで読みを深めることができた可能性があります。では、なぜそれができなかったのでしょう。その背景に次のようなことがあるのではないかと私は考えています。
 「ノリオは母ちゃんが死んだと思っているか。死んだとは思っていないか」という授業者が予め設定していた問いにこだわるあまり、T養くんの発言の意味を読み取り損ない、他の子の考えにつないだり、グループにもどすことができなかった。「想定」が子どもの発言を聴く耳を損なうことがあるのかもしれません。
 「母ちゃんが死んだとノリオが思っているかどうか」という問いは、少なくとも8月6日の場面では授業者のミスリードだというのは言い過ぎでしょうか?
 T養くんの発言が含む意味に気づかなかった。ひょっとしたら、授業者自身の作品の読み込みが足りなかった可能性があるというのは酷でしょうか?
 子どもの発言に対するリスペクトが足りなかったというのは推測が過ぎるでしょうか?
 ついでにいえば、確かにたっぷり音読しました。ところがどうも形式的になっていはいないかという疑念がわいてきます。
 T養くんの発言の後の音読はちょっとちがいますが・・・
 授業授業者は優れた実践を重ねてきたベテランだとうかがっています。手慣れてくるとこういうこともあるのだなあということも学んだことの一つです。

 文責  SV 馬場 英顕
posted by 川崎学びの会 at 17:31| Comment(0) | 月例会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする